富士山にのぼった人が帰ってきて、
近所の人にその話をしました。
富士山から見る景色は最高でしたよ、と話すと、
近所の人は、
「うちの物干しは見えましたか?」
と尋ねました。
相手は怪訝な顔をして、
「いや、お宅の物干しは、みえないですねえ」
と答えると、近所の人はこう言いました。
「おかしいなあ、うちの物干しからは、
富士はみえるんですがね」
これは、落語の小話です。
富士山から、江戸の物干しが見えるわけはないのですが、
江戸にいる人からすれば、
自分の家の物干しからは確かに、
富士山のてっぺんが見えるので、
おかしいな、とおもったわけです。
なぜ、こちらからは見えるのに
あちらからは見えないのか。
ちょっと考えればすぐに、
それは、もののスケールを無視しているからだよね、
と解ります。
でも、このご近所の人の「感じ方」には、
どこか、「ムリもないなあ」という部分があります。
こちらから見えていれば、あちらからも見えるはずだ
という感覚が、人間には備わっているのだな。
2016
言わば「富士山の頂点に登っている」ような状態にあります。
ずっと苦労して歩き続けてきて、
今いる場所に立っているわけです。
一方、自分が「近所の人」のような視野に立つことも出来ます。
物干し台から、富士山の山頂を見ているのです。
もとい、この
「近所の人の物干しから、どう見えるか」
という情報は、
誰か、他に。自分に深く関わる人がくれるものなのかもしれません。